建築家安藤忠雄の代表作 光の教会には特別な思い入れがあります
大学4年間を教会の向かいにある下宿で過ごしたからです
先日30年ぶりにかの地を訪れ それをきっかけに本書を手に取りました
scribbleofbourgogne.hatenablog.jp
物語は1987年に設計依頼を持ち込むシーンから始まるのですが
途中から自分が同じ時間をむかいにある古アパート(まかない付きでバストイレ共同)で共有していたことに気づき
当時の思い出がフラッシュバックしてきました
読む前から謎だったことは私がほとんど建築中の教会を覚えていないこと
記憶は教会完成後のクリスマス時期に十字路の角にあるもみの木(写真右側)が
電飾されていたこととカメラを抱えた人たちがちょくちょく
下宿の敷地にある駐車場に入ってきて教会を撮影していたことだけです
読み終えて長年の謎が解けてすっきりしました
私の時間が交錯し始めるのは1988年3月20日
教会では日曜礼拝の後に総会が開かれ安藤忠雄の設計案による
教会堂建築が正式決定された日です
一方、私はおむかいで下宿の契約をしておりました
受験に失敗して最後まで第一志望には合格できず
唯一ひっかかった大学へ通うため下宿を探していました
3月下旬で条件の良い物件は全て契約済み
紹介手数料のかからない大学の学生課には
ほとんど物件は残っていませんでしたが
駅から離れた(バス15分)ここだけは脈がありそうでした
電話をかけてみたのですがあいにく満室
田舎から出てきたため1日で決めなきゃいけないので
父(エナ爺)が食い下がると使っていない離れがあるので
空室が出るまでそこをお借りすることになりました
家賃26000円+朝晩食20000円で当時の相場から考えても格安物件でした
同5月14日 建設会社から教会に工事見積書が提出
GWが明けたこの頃は体育会スキー競技部に入部したての頃です
高校までは部活でスポーツをやったことはなく遊びでBMXをやる程度の
経験と体力しかありませんでした
大学から茨木サニータウン方面へ走って茨木倉庫で折り返して帰ってくると5km
1回生で体力がないながらも先輩に食らいついて千切られる毎日でした
この時期から今日まで33年間走り続けているなんてビックリです
同5月29日起工式
春季季節外駅伝大会で長居公園を走りました
他大学の先輩に元気よく挨拶して不器用に雑用をこなして
必死に2周5.6kmを走ったように思います
シューズやタイムは全然おぼえていませんが
不慣れな世界に緊張していたことだけ記憶しています
同8月29日工事再開
梅雨の長雨と幕張メッセをはじめ日本全国がバブルに踊り建築ラッシュで
職人が足りず1ヶ月の工事中断
あぁ当時は華やかでしたね
私は冬の山ごもりに備えてバイト三昧
建設現場はやったことありませんが学生相談所経由の単発バイトを
数多くやっていました
最初は日本橋のピーナッツ問屋で袋詰軽作業
続いて引越しや大型家電の配送助手
日給が良かったんで体力系のバイトを好んで選んでいました
体育会系は体力あって言うことを聞きますからかわいがってもらいました
同9月下旬に昭和天皇の様態悪化 10月18日基礎のコンクリート打設
10月19日リクルート事件で本社一斉捜索
このあたりから日本中に自粛ムードが流れはじめました
日産セフィーロのCMで井上陽水が「お元気ですか~」というセリフが
けしからんと無音に差し替えられたのもこの頃です
秋季季節外競技会(クロスカントリーラン)の準備をしている頃です
人生初の15kmは途方もなく遠くて険しかったです
時差スタートで後ろから女子選手が追っかけてくるんですが
この女性に抜かれたらペナルティと先輩に脅されて必死に逃げました
工事が本格化して生コンを積んだミキサー車が次々にやってきていたそうですが
まったく記憶にないです
それだけ部活に必死だったのでしょうか
同12月9日壁のコンクリート打設開始
ようやくウワモノが姿を見せはじめる時期に私は北海道合宿へ出発
スカイメイトを利用して人生初の飛行機でした
今では考えられないことですが当時は先生と個別に交渉して課題を出してもらって
12月以降の授業出席を免除してもらっていました
1月にインカレを控えており母校の栄誉のためというお題目で
特別措置が個別であれ許されたのは当時の緩さでしょうね
現在の現役選手は特例がないためインカレ直前に山に入って試合に臨みます
当然レースになりませんから成績はガタガタで低迷しています
正月期間はお世話になっている民宿がスキー客対応でごったがえすので
野沢温泉を追い出されて大阪に戻っていました
そこに崩御のニュース
全国でイベント自粛が続きますがインカレはおかまいなしで
成人の日翌日の1月16日から新潟赤倉温泉で開催されました
はじめての雪上の試合はスペシャルジャンプとノルディックコンバインド前半
スモールヒル(30m級)で2本と3本を飛んだのですが
断トツのビリ
飛距離を示す10mの手前で落ちていました
このへたくそなジャンプをニュースステーションのコーナーで特集され
全国にオンエアされました
遠く離れた故郷の小豆島で両親は
「坊っちゃん好きなことして頑張ってますね」と近所の人に言われたらしい
同1月18日現場監督が施主に光の十字架のガラスを外すことを説得しようとするが断られる(1回目)
私はインカレが終わって帰阪しているかどうかの時期です
1月末まで続く後期試験に備え準備に取り掛かっていたことでしょう
同1月27日最後のコンクリート打設(壁の上半分と屋根)
20時から雨が雪に変わり22時に全作業完了
1月31日 光の十字架が出現
工事の山場で最難関の工程で熱く戦っているおむかいで
私も試験勉強に熱くなっていた(はず)
雪が降ればなにか覚えているはずですが何も覚えていません
同2月16日NHKドキュメンタリー全国放映
『にんげんドキュメント主役・脇役 建築家スパルタ教育』
後期試験を終えるや否や長野県野沢温泉にこもって春合宿スタート
民宿の各部屋にもテレビはありますが夜8時といえば
洗濯の当番かスキーのワックスがけをしているので
余裕なんてありません
ドキュメンタリー放映後はあちこちから教会へ取材申し込みが舞い込み
対応に追われていたようです
同3月3日施主がブチ切れ打ち合わせが長引き設計担当者は茨木駅まで歩いて帰る
全関西学生スキー選手権の真っ最中です
この時もスペシャルジャンプとノルディックコンバインドで
しょぼいジャンプを披露しておりました
あまりにも自分がジャンプにセンスがないこととクロスカントリーで
そこそこ走れたことから2回生になって純ランナーへの転向が許されました
思えばこれがラストジャンプでした(華やかさのカケラもないですが)
私も何度も駅から2.5km30分を歩きましたが遠いです
バスの本数が多くないのと節約のためですが毎日のことなので
駅近物件に引っ越したくてたまりませんでした
とはいえ仕送りしてもらっている身
さらに金のかかるスキー部ですから引越しするお金の余裕はありません
卒業までの4年間を同じ下宿で過ごしました
同年5月14日竣工
なにも覚えていないのはほとんど下宿にいなかったせいでしょうね
納得です
1995年1月阪神大震災
1999年2月教会堂横に教会ホール完成
今も安藤忠雄氏は10年20年かけて同敷地内で増築増殖の機会を伺っています
建築は多くの人が携わり支えられて建つものですから一生モノの作品です
結びの1文『建築はまだ終わっていない』ってのが心にしみました
昨日のworkout
スイム2.5km
ラン3km
スピード練習が3日続いたのでリカバリースイム
だらだら泳いでスッキリしました